16世紀末、広島城は毛利輝元により築城されましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将として参戦し、これに敗れた輝元に代わり、東軍で論功のあった福島正則が、安芸・備後49万石を与えられ入城しました。しかし、福島正則も元和5年(1619)、幕府の許可を得ずに城を修復したとして、信濃川中島4万5千石に転封させられてしまいます。
代わって広島城に入城したのが、当時紀州和歌山37万石の領主であった浅野長晟です。この後、広島浅野藩の治世は明治維新に到るまで、12代約250年の長きに亘り続くこととなります。
江戸時代、有力な地方大名たちは、本拠地の城やその近く、または江戸屋敷に広大な庭園を造り、茶室建築などを建てる風潮がありました。
広島浅野藩初代藩主 浅野長晟は、広島城入城翌年の元和6年(1620)から、泉水屋敷の築成に取りかかりました。のちに縮景園と呼ばれるようになったのは、幾多の景勝を聚めて(あつめて)縮めて表現したから、または、中国浙江省の西湖(せいこ)の景観を縮小して造られたことに由来するとも伝えられています。
作庭者には、浅野家の家老であり、千利休の系譜を引く茶人としても有名な上田主水正重安(号は宗箇)が起用されています。
宗箇は、織田信長の重臣丹羽長秀に仕え、武勲を上げるなど活躍しましたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の抜擢により幕下とされ、越前に1万石を領することになりました。翌天正14年(1586)には、秀吉の大仏殿造営の工事監督を務めており、この頃既に宗箇の土木・建築についての技術が注目されていたと考えられます。
上田宗箇が作庭した当時の様子に近い縮景園の姿を描いた絵図。
中央の池に浮かぶ島は2つで、素朴で力強い、宗箇の武人としての人柄がしのばれる。
吉長、寄福山など17か所の名称をつける
正徳3年(1713)、5代藩主吉長は、園の中央、池の北側の山に後に「泉邸稲荷」と呼ばれる稲荷神社を祀りました。
同年、吉長は縮景園を訪ね、稲荷神社を祀った山を寄福山(きふくさん)と名付けたのをはじめ、17か所に名称を付けています。
泉邸稲荷は、原子爆弾で焼失し、現在は川向こうの饒津(にぎつ)神社に再建されています。
宝暦8年(1758)4月3日、広島では開府以来の大火災が発生しました。「宝暦の大火」といわれるものです。
午後4時頃、白神組五丁目(現大手町三丁目)からあがった火の手は、折からの強風にあおられ、現在の本通、紙屋町、立町、幟町、更には白島や牛田にまで燃え広がりました。この火災は縮景園にも及び園内の多くの建物が焼失しました。
第7代藩主 浅野重晟(しげあきら)は、天明3年(1783)から同8年にかけて、京都の庭師 清水七郎右衛門(尾道出身)を招き、園の大改修を行いました。この時の庭の改修の中心は、園中央部の池を縦断する石橋(後に跨虹橋(ここうきょう)と名付けられる)の建設で、藩主重晟は、この橋にこだわりを持ち、一度築いたものを取り壊し、二度目にようやく満足する形が得られたと伝わっています。
この改修により、縮景園はほぼ今日の姿になりました。
浅野重晟が命じた改修後の縮景園の様子が分かる絵図。池の形状や島の数など、現在に通じる庭園の姿がうかがえる。
大改修後の文化元年(1804)7代藩主 浅野重晟は、既に家督を嫡子斉賢(なりかた)に譲り隠居していたが、園内の建造物や名勝等に号を付けようとし、儒官である頼 春水や梅園 太嶺、近侍の岡 岷山(みんざん)らに案を出させて、縮景園名勝34か所が選定され名称が付けられています。
この時に付けられた名称には、濯纓池、清風館、祺福山、跨虹橋
超然居、白龍泉、明月亭など現在も使われているものが多くあります。
明治27年・28年(1894・1895)の日清戦争にあたり、大本営が東京から広島へ移され、広島城跡がそれにあてられました。非常時に備え縮景園は大本営副営と定められ、清風館は明治天皇の居所とされました。
およそ7か月の広島滞在期間中に明治天皇が園を訪れたという記録も残っています。
大正2年(1913)園内に観古館が設けられ、浅野家所蔵の書画、古文書、武具、茶器などが陳列され、一般公開がはじまりました。これにより、縮景園は、これまで自由に出入りすることができなかった県民にも、なじみ深いものとなっていきました。
呉のバス会社役員 故大宮忠美さんが1936年前後に9.5ミリパテベビーで撮影しました。
広島市内とその周辺の映像の一部で、映像を見た専門家の分析から1936年(昭和11年)頃の撮影とみられます。
写っているのは跨虹橋などを含む、泉邸(今の縮景園)と園の外に見えるのは常盤橋鉄橋と蒸気機関車です。
撮影:大宮忠美 氏
撮影者は当時広島市革屋町(現中区本通アンデルセン付近)で生地販売店を営んでいた 吉岡信一さん。
忍び寄る戦争の影の中、映っている跨虹橋など縮景園の様子からは、鯉の姿や、餌をやる人の姿など等身大の市民生活を伺うことができます。
提供:広島市公文書館
昭和15年(1940)県は、前年、浅野家より申し出のあった縮景園及び観古館の寄贈について、正式に受納しました。
こうして縮景園は広く県民に公開されることとなりました。同年7月史跡名勝天然記念物保存法に基づく名勝の指定を受け、同法の規定に従い、園の保存と活用を図ることとなりました。その後、この法は文化財保護法の中に継承され、効力は今日に及んでいます。
昭和20年(1945)8月6日の原爆投下により、多くの尊い人命が失われました。園内の清風館をはじめとする数々の建物は一瞬のうちに廃墟となり、巨樹名木も焼失し、昔日の面影は全く失われてしまいました。しかし、園の基礎ともいえる濯纓池を初め、築山・跨虹橋などは、ひどい損傷を受けながらも旧状をとどめていました。
被爆直後の広島市内を地上から撮影した映像で1945年9月5日の撮影と見られ、現存する被爆直後の映像としては最も古い映像の一つです。
映像には遺体を焼く煙の様子など、被爆直後の生々しい映像も含まれます。
縮景園の正面の石柱と外壁を残して、園内の樹木が火災によって焼け、焼け野原となっている様子が見てとれます。
提供:日映映像
被爆後の復旧が始まったのは昭和24年(1949)のことでした。
濯纓池の浚渫、がれき、雑草の除去に始まり、松、梅、樫など樹木の植栽、一方では橋梁の修築や魚などの放養を計画的に進めていきました。
こうした工事の甲斐あって一応の体裁が整ったとして、昭和26年(1951)4月から再開園することになりました。
さらに昭和30年代の正門や清風館の復元工事の着手、昭和40年代の石組の修理や薬草園の復元、悠々亭や看花榻、夕照庵、超然居などの完成を経て、昭和49年(1974)11月の明月亭の竣工により、30年の月日を要した復旧整備はほぼ完成しました。
令和2年(2020)縮景園は、元和6年(1620)に築庭に着手されてから、400年という記念の年を迎えました。